17世紀後半になると、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラーム教スンナ派に基づく統治を行い、人頭税を復活したためにヒンドゥー教徒の支持を失い、デカン高原のマラータ族もシヴァージーを中心に1674年にマラータ王国を形成するなど各地で反乱が勃発、アフガン人・イラン人も侵入して帝国は衰退にむかった。1708年、マラータ王国がマラータ同盟として再建された。ことに1719年は、何人もの皇帝が入れ替わり、政治的混乱の極みに達した。
英仏の進出と植民地抗争 [編集]
プラッシーの戦い
詳細は「第2次百年戦争」を参照
インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が勃発、オランダは北米大陸とともにインドでも根拠地を失っていった。イギリスはマドラスにつづき、1661年ボンベイ(ムンバイ)、1690年カルカッタ(コルカタ)を獲得、一方、フランスも徐々にインド進出を図り、コルベールがフランス東インド会社を再建、1673年シャンデルナゴル、1674年ポンディシェリを獲得した。利害が対立した英仏両国は、新大陸と同様にインドでも抗争を続け、1757年、ベンガル地方のプラッシーにおいて、クライヴ率いるイギリス東インド会社がベンガル太守軍とフランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。
イギリスによる植民地化とインドの貧困化 [編集]
対英戦争に一生を費やし「マイソールの虎」と怖れられたティープー・スルタン
詳細は「マイソール戦争」を参照
18世紀後半、七年戦争の帰趨を定めた1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、マイソール戦争・マラータ戦争・シク戦争などを経てインド支配を確立した。1813年よりイギリスの対インド貿易が自由化されたことで、産業革命を既に成し遂げていたイギリスから機械製綿織物がインドへ流入、インドの伝統的な綿織物産業は破壊された。さらに、1793年のザミンダーリー制、19世紀前半のライヤットワーリー制などの近代的な地税制度を導入したことも、インド民衆を困窮させた。
19世紀にはいると、イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。これらは産地と港湾を結ぶためのものが多く軌道の幅もまちまちで、主としてインドでの税収をもとに投資されたもので、これから得られる利益は多くイギリス人によって回収された。

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